mmyy-yokoのブログ

悲しみの淵から

私が生きる理由

息子が亡くなる前日まで、

10年近くフルタイムのパートで事務をしていたが、

あの日から、

家から出られなくなり、

パートを急きょ辞めさせて貰った。


今は、

食べて寝て、最低限の家事のみ。

生きる事を楽しめず、

時折襲う不安と、悲しみの波の中で

もがきながら生きている。


生きる価値を考えると、

主人と、娘の為。

もうこれ以上の苦しみを二人に背負わせる事は、死んでも出来ない。


それでも、時折、死んでしまいたい、楽になりたいとささやく声が聞こえる。

そんな葛藤が、この先もずっと続く事だろう。

こんな私でも、生きてるだけで安心してくれる二人の為に生きてみる。


あの子の為ではなく、

今、生きている二人の為に

天に召されるその日までは生きてみようと思う。

いつかあの子に会えたら、

待たせてごめんと、謝ろう。


どくどくと血を流しながら、

この先一年、二年、十年…いつになるのか分からないが、

最後まで、生きてみようと思う。

一周忌を終えて

まだ一年、もう一年、

どうでも良い。

あの時から、

私の中の時計は止まっている。

時間だけは過ぎているみたいだけど。

あれからは抜け殻。

それで良い。

涙は尽きない。

抜け殻から、

どくどくと涙だけが溢れ出る。

何も、誰も、

空いた穴を塞ぐ事は出来ない。

何をしても喜びを感じられず、

ただただ時間だけが自分の周りを

サラサラ流れて行く。

何を食べても同じ味がして、

生きながら死んでいるような感覚。

時に、

生きる価値はと自身に問いかける。

答えの無い禅問答。

荷物は重く、それでも歩き続けるしかないという。

頂上の無い山を登り続けるように。

悲しみの淵から、

23歳の息子が亡くなって3か月半ほど経った。


ネットで同じ悲しみを背負う人たちのつぶやきを読み漁った。
『私と同じだ・・』ここにも、あそこにも。
息子が亡くなる前には考えもしなかった事を、今はあれこれと考えるようになった。


私なりに精一杯愛し、育ててきた事に後悔は一切ない。


生きていて欲しかった、でもそれは私のエゴなのだろうか・・・
息子は生きることが死ぬことよりも辛かったのだ。
心を病み、生き急いでしまった。
心にできた癌のようなものが蝕み、死へと向かわせたのだろう。


助けられなかった無念さはどの親でも同じだ。


死にも色々ある。
死にたくなくても事故や病気で死んでいく人もいる。
どんな死であろうと、
残された者は一様に深い悲しみを抱えて生きていく事になる。


・・辛さの中に『何か』を見つけてみたい気がする。
そんな答えが見つかるのか、今はまだ分からないが。
ただ一つ、息子の死と向き合うということは、
私自身の問題なんだ、他の誰にも解決できない、自分自身の問題なんだということ。


私もいつかは死ぬ。必ず死ぬ。
いいえ、みんな生きている者には必ず死が訪れるんだ。
焦ることはない。
日々を過ごすうちに、
一歩一歩確実にゴールに近づいているんだからと思える。
その日までにゆっくり『何か』を探し続けようと思う。


『サイン』という映画を見た。
ある母親が、育てた娘を不治の病で亡くす。
母親には未来を予知する特殊能力があり、娘の死を知りながらも娘を生み育てていく。
見ていて幻想的で、現実との境目を忘れ、引き込まれ、考えさせられる映画だった。


息子の苦しみを、今は私が肩代わりした気がしている。
夫も、息子の姉である長女も苦しんでいる。
苦しんでいたんだね、でも今はお母さんがそれを代わりに背負っているからね。だから、もう苦しまないでゆっくりと、のんびりと、あの世で楽しんで欲しい。素敵な女性を見つけて、幸せに暮らしてほしいと思うよ。


号泣すると、心に溜まっている悲しみが洗い流されるように感じる。
でもまたいつの間にか心に溜まる、泣く、溜まる、泣く・・そんなことを繰り返す。
生きると決めたから、ゴールまでは生きるつもりでいるよ。
どうか、近くで見守って欲しい。